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松島のかき祭り [仙台だより]

今日は仙台も結構な雪が振っている。


先週は小春日和の中、松島でかき祭りが催されたので見てきた。
仙石線松島海岸駅を降りると海岸の広場で人々がかき焼きを楽しんでいる。
広場の正面にはステージ、周りには屋台が並んでいる。
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まずはステージを見ることにする。
伊達武将隊が踊りなどの演技を披露している。
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この伊達武将隊…あちらこちらで活躍していて…人気もあるようだ。
http://www.datebusyou.jp/index.shtml

次は陸上自衛隊の音楽隊だ。
懐かしいアニメ曲などを聴かせてくれた。
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そこまで見てお腹が空いてきたので歩いてみることにした。
すると…無料のかき鍋があるというので行列に並んでみた。
並ぶこと20分ほど…
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とってもささやかだが旨かった。
どうやらこれも自衛隊が協力しているようだ。聞くと…多賀城から来ているらしい。
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さて…今度は屋台の方へ行ってみる。かなり賑わっている。
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やはりここは焼きガキと決めてまた並ぶ。
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そして地酒とともに美味しく頂いた。
来年は家族も呼んで炭火焼きをしたいものだ。

仙台は常春の国よ [仙台だより]

今日は全国的に日本海側で雪だ。

青森から福岡までずっとすじ状の雪雲が覆っている。
その上すじ状の雲は…御前崎、潮岬、足摺岬の沖の太平洋上まで続いている。
大学入試センターの試験が無事に終わることを祈る。
しかし
よく観てみると、東北の太平洋側には雪が降っていない。
気温を見てみると

九州や四国の太平洋側でも氷点下を示す緑色のポイントが多いにもかかわらず、
岩手県や宮城県の太平洋側では気温が0℃~5℃を示す黄緑のポイントが並んでいる。
仙台市内でも日照があり、今朝は布団を干すことができた。

先日仙台から青森へ出張の機会があった。
先月全線開通した東北新幹線で新青森に向かった。
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仙台の平野を進んでいくと暖かな日差しのもと、のどかな風景が続く。
関東の田園風景と何ら変わるところがない。
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宮城県内でも北の方に進んで、古川のあたりまで来ると、さすがに根雪となってくる。
それでもかなり浅いものだ。田のうねが透けて見える。
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そして盛岡に来ると少し深くなってくる。
家の屋根にも雪が乗っている。
それでも、まだ日差しがある。
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八戸のあたりも日が差して盛岡よりも雪は少なめだった。
しかし十和田のあたりまで来ると次第に雪雲が広がりはじめ…
八甲田山系を貫く八甲田トンネルを抜けると…鉛色の空が広がっている。
そして…
新青森に着くと…猛吹雪だ
とにかく寒かった…
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これを思えば仙台は常春の国よ♪

大荒れの年越し [仙台だより]

今年は仕事の関係で、仙台にて年越しだ。
関東の自宅に一度帰って家族の顔をみて、また仙台に戻ってきた。
部屋の中をざっと片付けて、丸く掃いて年越しの仕度だ。

今年は大阪から仙台に移り、あっという間に過ぎてしまった。
仙台は、「東北の太平洋側」というだけあって、その気候は、寒冷な東北と温暖な関東のミックスのように感じる。
桜は遅く咲き、楓は早く色づく。
もちろん猛暑もすごかったが、彼岸を境に秋が来て冬が来た。
雪もそれなりに降るが、そう多くはないし、まだ冬日も経験していない。
寒の入りが楽しみだ。

それにしても…今夜は少し荒れそうだ。

絵に描いたような二つ玉低気圧だ…
これが九州に雪を降らせて東北にも猛威をふるおうとしている。
どうやら仙台では紅白の時間に合わせて吹き荒れる予報だ。
おとなしく部屋で鍋でもつつくとしよう。

oshougatui02-002.gif  さて  oshougatui02-002.gif

どちらさまもこの一年お疲れ様でした。
ご厚誼に深く感謝して、新年が幸多いことをお祈りします。

イチジクにカビが生えて… [仙台だより]

この間袋入りのイチジクを買ってきて…冷蔵庫に入れ忘れた…
二三日出張に行って昨晩帰ってきたら…
カビが生えていた…
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…捨てようか…

しかし…食べ物を捨てられるか?
それは僕の流儀じゃない。
それにイチジク表面の白いカビをよく観ると…貴腐葡萄のようでもある。
ワインでも醸すか?
それもまた無理がある…

そこで閃いたのが甘露煮である。
ところが…そこで気付いたのは…
僕は…これまでの単身生活1年半余りの間に砂糖を使ったことがない。
だから…わが家には砂糖がない。

そこで今朝起きて砂糖を買ってきた。
ジャ○コの食品売り場は24時間だ。
早朝の食品売り場は買い物客こそまばらだが…従業員が活発に棚を整えている。
そして上白糖を求めて帰れば準備万端だ。
こちらのレシピで煮詰めること一時間。
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朝食のお供にピッタリだ♪

仙台新寺通りの紅葉 [仙台だより]

ニュースもトーク番組も今や尖閣のビデオ流出で一色だ。
メディアも論者も日本政府が余りにも弱腰で中国の顔色をうかがいすぎという論調が圧倒的だ。

昨日付の社説のタイトルを並べてみる。
読売:尖閣ビデオ流出 一般公開避けた政府の責任だ(11月6日付・読売社説)
日経:迫られる尖閣ビデオの全面公開
産経:【主張】尖閣ビデオ流出 政府の対中弱腰が元凶だ
琉球新報:衝突映像流出 なぜ公開できないのか
他方…情報管理を指摘するところもある。
毎日:尖閣ビデオ流出 統治能力の欠如を憂う
朝日:尖閣ビデオ流出―冷徹、慎重に対処せよ
沖縄タイムス:[尖閣ビデオ流出]一体どうなってるんだ

本日のたかじんの委員会でも同様だった。
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さて…本日は快晴だった。
東北では紅葉の盛りが北東北から南東北に下がってきた。
蔵王や鳴子をはじめとして、紅葉の名所も数多くあるが…渋滞や混雑はちょっと…
そこで春の桜を見に行った新寺通りに行ってみた。

まずは善導寺さんだ。
灯籠に絡まる蔦の葉も色づきはじめている。
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そして境内の楓も二色染めだ。
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次いで道仁寺さんの枝垂れ桜だ。
春の桜の時とほぼ同じアングルで撮ってみる。
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正樂寺さんは本堂と並んだ銀杏が素晴らしい。
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孝勝寺さんの楓はきれいに染まっている。
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天の高い秋を感じたひとときだった。
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杜の都全日本大学女子駅伝 [仙台だより]

仙台にやってきて駅伝が見れるとは思わなかった。
というのも箱根しか興味がなかった。
そこへ来て杜の都全日本大学女子駅伝が行われた。
http://www.ntv.co.jp/morinomiyako/
やはり駅伝にはドラマがある。

そこでスタートを見に行くことにした。
ゴール地点の周りはものすごい人垣で…そう簡単には見れないであろう事は箱根の時に経験済みだ。

自転車を漕いで仙台市陸上競技場に向かう。
バックストレッチの中央がスタート地点だ。
その向こうには各校の応援団やチアリーダーやブラスバンドがそれぞれのやり方で応援している。
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そして12時10分が近づいてきた。
一区の選手たちがスタート地点に向かう。
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そして号砲とともに一斉にスタートし、競技場を反時計回りに半周して路上のコースへと向かう。
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僕は場所を移して一区の選手が再び競技場に戻る場所に陣取る。
一区のトップは昨年優勝の佛教大だ。
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ここまで見て大急ぎで帰宅して後はテレビ観戦だ。
なにしろ前後の中継や様々な解説があるのはテレビだ。
それにしても今日のアナウンサーはいい間違えが多い。
まあ…殆どがアドリブだから仕方がないか…

そしてトップは終始佛教大が維持して
ついに五校目の2連覇を大会新記録で達成した。
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ところで、箱根がそうであるように、ドラマは「繰り上げ」と「シード」だ。
今日も凄まじいドラマがあった。

まずは繰り上げ発走
第5中継点、つまりアンカーへと襷を渡す地点でそれは起こった。
トップの佛教大のリレーから10分後に繰り上げ発走は行われた。
連続写真で見てみると…白いウエアの中京大が…
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あと1秒ほどで間に合わず…涙を飲んだ

次にシード権争いだ。
杜の都ではシード権は6位までしかない。
これは厳しい。
優勝の佛教大に続いて
2位 立命館大
3位 名城大
4位 松山大 四国で初のシード校だそうだ。
5位 城西台
そして…6位争いが熾烈だった。
九州初のシード校を目指す鹿屋体育大と関東の城西国際大だ。
その争いは定禅寺通りまで続き…最後の最後に鹿屋体育大が4秒のリードを奪って6位に入った。
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…こうして僕は杜の都駅伝を見てしまった…
…来年はまた新たな物語が生まれるのだろう…
…また一つ…終わりのない物語の世界に足を踏み入れてしまった…

「誰もいない海」と「はやぶさ」行列 [仙台だより]

9月になっても数日、仙台でも猛暑が続いたものだが、先の台風通過を境にして、少し涼しくなってきた。
とはいえまだまだ充分真夏日ということで、海に行くことにした。
11日土曜日
単身赴任の気軽さで、簡単な弁当を拵えて
土曜日の昼前に仙台を発ち、昼下がりの三陸自動車道を東進して牡鹿半島へと進んだ。
目指すは十八成浜(くぐなりはま)だ。
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少しでも都市から離れた海岸に行きたかった。
まだ充分暑いから、お客は多いかと思いつつハンドルを握って…着いてみると
・・・
♪誰もいない海~♪  だった…トワエモアの歌そのものだ…
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海岸にたむろするのはカモメの群だ…
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ここまで静かだとは…
ひとまず泳ぐのはやめて…弁当を使って写真の旅にする。
入り江には漁港
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月浦を見下ろす丘には支倉常長像
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そして石巻の町を眺めて帰ってきた。
どこへ行っても空いていた。

明けて12日日曜日
角田宇宙センターに「はやぶさ」のカプセルが展示されるということで見に行った。
国道4号線を南下して、船岡に着くと、「臨時駐車場」への看板が次々に誘導してくれる。
船岡城址公園の臨時駐車場に誘導され、シャトルバスで角田宇宙センターに着く。
シャトルバスに乗るときに、「向こうで2時間半待ち」と告げられる。
そう言われても…こちらもここまで往復2時間半で来ているのだから、ここで怖じ気づくわけにはいかない。
そしてセンターに着くと、はたして長蛇の列が待っている。
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それでも着々と前に進んで…
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小一時間で「管理棟」内の展示室にたどり着く。
展示室内は撮影禁止だ。
下は入り口で撮った一枚だが、正面にカプセルやパラシュートが展示されている。
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実際に来ていたのは、
・インスツルメントモジュール…小惑星の欠片を収めるためのサンプラーコンテナを収める核心部分
・搭載電子機器部…パラシュートを開いたりビーコン電波を出したりするなどカプセルの動作を司る部分
・パラシュート…とても軽量な感じだった
本当はヒートシールドが見たかった。
大気圏突入の熱で焼け焦がれながら、核心部を守ったシールドを見て、はやぶさの長旅を実感したかったが叶わなかった。
それにしても、はやぶさプロジェクトが大変な困難を乗り越えて、いくつもの快挙を成し遂げたことはここでいうまでもない。
それを昨年の今頃は…その事業の意味も判らない連中による事業仕分けが行われ…大なたを振り下ろしていた…
僕も当時ははやぶさプロジェクトがこれほどの努力と成果を上げようとは思わなかった。
やはり…学び・知ることにより…その大切さを思うしかない。

航空自衛隊松島基地祭 [核と平和と田母神氏]

8月の番組は多くが戦争の悲惨さを描く。
ありとあらゆる方法を駆使して悲惨なる部分を強調する。
それも自らの意志というよりも運命に翻弄されるが如き兵士にとっては一層悲惨である。
戦争が悲惨なことはわかる。

それでもこの世から戦争はなくならない。
何故だろう?

1 国際社会には執行力のある共通普遍の法規範がない。
  「剣なき秤は無力、秤なき剣は暴力」(ルドルフ・フォン・イェーリング「権利のための闘争」より)という。
  国際司法裁判所は付託された事件を審判できるが執行力がない。(時に剣なき秤となる)
  安全保障理事会は強制力ある議決をできるが理事国の利害に支配される(時に秤なき剣となる)
2 話し合いで解決できない問題がある。
  領土問題、民族問題、宗教問題はその代表的なもの。
  近代になっては資源問題がクローズアップされている。
3 人の命よりも大切な価値がある。
  神との契約、国家の主権、人民の尊厳、民族自決などはその代表的なもの。
  更に近年は、自由民主主義だとか大量破壊兵器の不拡散などの価値も加わってきている。
  
その結果、領土紛争・民族紛争などの武力紛争から、時には「安保理のお墨付き」の戦争までが起きる。
我が国が平和憲法を掲げているからといってそのような戦争や紛争から無関係でいられる訳ではない。

そうすると、我が国が他国を攻撃することはないとしても、防衛するための力がいる。
我が国の主権・自由・民主主義を侵略者から守らねばならない。

などと思いながら松島の基地祭を見てきた。

仙石線釜石行き快速で矢本駅に立つ。
そして人々が歩く方向に向かう。
10時を過ぎると既に飛行機が次々と上空を飛行している。
この基地祭のために臨時列車運行され、例年8万人が訪れるといわれている。
稲穂の揃った田の向こうには観光バスの列が見える。
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場内は多くの人が入っているが、多くの人達は格納庫など日陰で眺めているので、日なたのエプロンはそれほど混雑していない。
それにしても、日陰という日陰は人がビッシリだった。

エプロンには各種の飛行機が展示されている。
F-2
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F-15
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U-125
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特別塗装は宮城県出身の石ノ森正太郎にちなんでサイボーグ009である。
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F-2による展示飛行
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救難隊による救難展示
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そしてお待ちかねのブルーインパルスである。
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これが終わると一気に駅に駆け戻り、混雑する前に帰ってきた。
随分日に焼けてしまった。

65回目の終戦の日にあたり各紙の社説を読む [核と平和と田母神氏]

今年も8月15日がやってきた。
正午の時報とともに三百万余柱の御霊に黙祷を捧げ、陛下のお言葉を拝聴した。

各紙は終戦の日を迎えそれぞれの視点から社説を掲げた。
それぞれの視点から教訓や現代の課題を捉え、提言をしている。

非常に限られた紙面だから、広く深くは論ずることができないので、おのずと論点が絞られてくる。

読売は戦争末期に起きた悲劇が必ずしも日本ばかりの責任ではない事を述べた後、日本としても誤りを率直に認め反省すべきとしている。
まずは、「何が、何故、どうなって」ということをしっかりと検証する必要があると思う。
これを本当に客観的に検証しようとすると、欧米との関係においては大恐慌あたり、中国との関係においては北清事変あたりまで遡ることになるのかも知れない。
終戦の日 平和な未来を築く思い新たに
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20100814-OYT1T00829.htm
今年も8月15日を迎えた。戦没者を追悼し平和への誓いを新たにする日である。

 第2次世界大戦が終わってから65年。国連を中心に核軍縮や紛争調停の努力が続けられているが、戦争や地域紛争は絶えることがなく、平和への道筋はなかなか見えてこない。

 終戦と言えば、8月15日を区切りに平和な日々が始まったというイメージが定着している。
 しかし、8月9日に日ソ中立条約を破って満州(現中国東北部)に侵攻を始めたソ連軍は、15日以降も進撃を続けた。
(中略)
終戦の夏のもう一つの悲劇は、広島、長崎への原爆投下だ。(中略)
米国では、「原爆投下で本土上陸作戦が回避されたことにより、多数の米国人の生命が救われた」とする主張が根強い。
 しかし、原爆という残虐な兵器の使用によって、20万人を超える広島、長崎の市民の生命が奪われた事実の重みは消えない。

 一方で、日本も過去の誤りを率直に認め反省しなければ国際社会からの信頼は得られない。
 日本は世界の情勢を見誤り、国際社会からの孤立を深めていく中で無謀な戦争を始めた。中国はじめ東アジアの人々にも多大の惨害をもたらした。
(中略)
 1945年の終戦の夏を顧みることは、国際協調の道を歩むことを誓った戦後日本の原点を問い直してみることでもあろう。 「終戦の日」は、過去の歴史を踏まえつつ、国際協調の下、世界平和のため積極的に行動する決意を新たにする日にしたい。


産経は安全保障の観点から現代の安全保障の課題に論点をあてている。
そして、310万の御霊の思いと現代日本の現状を見ている。
日本の置かれた安全保障環境の中で、日米同盟を前提としながらも、自己解決能力を持つべきことを提言している。
御霊の思いを無駄にしないため、世界とともに繁栄する日本を作り上げていかなければならないと思う。
他方で、失敗の教訓を「敗色濃い戦局をひた隠しにし、破滅的な結末を招来した戦争指導部の責任」に収れんしてしまうのはどうだろうか…多くの要素の一つとして掲げるならばともかく…
【主張】終戦から65年 「壊れゆく国」正す覚悟を
http://sankei.jp.msn.com/life/education/100815/edc1008150404001-n1.htm
・慰霊の日に国難の打開を思う

 65回目となる終戦の日を迎えた。先の戦争の尊い犠牲者を追悼するとともに日本の国のあり方に改めて思いを致したい。
 眼前には夥(おびただ)しいモラル破綻(はたん)と政治の劣化などに象徴される荒涼たる光景が広がる。こんな国のままでよいのか。どこに問題の本質があるのか。「壊れゆく国」を早急に正し、よりよき国として次の世代に引き継ぐ重い責務がある。
 現在の日本の平和と繁栄の礎になっているのは、あの戦争で倒れた軍人・軍属と民間人合計約310万人だ。だが、死地に赴いた英霊たちの思いを今の日本人は汲(く)み取っているのだろうか。 どういう国を作ったか
 7月に刊行された「国民の遺書」(産経新聞出版)は、靖国神社の社頭に掲示された遺稿を紹介している。昭和20年5月、九州南方にて23歳で戦死した長原正明海軍大尉は「どうか国民一致して頑張って頂(いただ)きたいものです。特攻隊員の死を無駄にさせたくないものです」と綴(つづ)った。
(中略)
 「あの世に行ったとき、特攻隊員の先輩たちにこう聞かれると思っています。『おまえはどういう国をつくったのか』と。私はそのとき、きちんと答えることができるようにしたい」。生前、柔和な表情でこう語ってくれたのは、今年5月、82歳で鬼籍に入った阪急電鉄社長や宝塚歌劇団理事長などを歴任した小林公平さんだ。昭和18年12月に海軍兵学校に入り、終戦を最高学年で迎えた。
 特攻隊を志願した先輩たちは小林さんらに日本を託したのだった。こうした踏ん張りが世界第二の経済大国に結実した。

 だが、その中ですっぽり抜け落ちたのが、国家のありようだ。米国に寄りかかったことは、日本の復興を促したが、一方で独立自存(じそん)の精神を希薄にしてしまった。

 忘れられたことはまだある。敗色濃い戦局をひた隠しにし、破滅的な結末を招来した戦争指導部の責任だ。自国による検証を行わず、責任をうやむやにした。失敗からの教訓を学んでいない。

 今、日本の安全保障環境に警報ベルが鳴り響いている。台頭する中国に対し、米国のパワーの陰りが随所にみられるからだ。

 しかも米軍普天間飛行場移設問題の迷走が示すように、日米同盟を空洞化させているのは日本自身なのだ。その結果、生じつつある日本周辺での力の空白を埋めるため、力の行使も辞さない勢力が覇を唱えようとしている。

・立ちゆかぬ「米国任せ」
 これまでのような「米国任せ」による思考停止では、もはや日本は立ち行かない。欠落しているのは国を導く透徹した戦略観だ。 国家戦略のなさ、外交センスの貧弱さ、情報分析能力の欠如-その危うさは今と似ている。

 揺れも大きい。戦前・戦中の軍事力偏重は戦後、完全否定となった。絶対的な無防備平和主義は、自己中心主義を育てたといえなくはない。

 やはり自分たちの問題は自らで解決する基本に立ち戻ることが求められている。自力で守れないときは同盟国とのスクラムを強める。弱さは必ずつけ込まれる。
 思いだしたいのは、昭和天皇が昭和20年8月14日の御前会議で述べられたことだ。迫水(さこみず)久常・元内閣書記官長の「終戦の真相」(平成15年9月号「正論」)がこう伝えている。「日本の再建は難しいことであり、時間も長くかかることであろうが、それには国民が皆一つの家の者の心持(こころもち)になって努力すれば必ず出来(でき)るであろう。自分も国民と共(とも)に努力する」
 いまの国難を打開するには、国民が総力を挙げて、これに立ち向かい、乗り越えようとする覚悟と気概を持つ以外にない。


毎日は「国際感覚の欠如と情報不足」を当時の教訓としている。しかし…それが起こった背景には当時のメディアは関与していなかったのだろうか?
また…「平和を創る」の意義をしっかりと定義していないから、先の大戦時の終戦工作から国連平和維持活動までがチャンポンになっている感がある。
それにしても、毎日が国連平和維持活動への積極参加を主張するのはいつ頃からだっただろうか…
社説:戦後65年・終戦の日 歴史見すえ平和創ろう
http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/news/20100815k0000m070093000c.html
 戦後65回目の終戦記念日である。あのころに思いをはせながら、平和を創(つく)るということを考えてみよう。  1945年はどんな夏を迎えていたのだろうか。  3月の東京大空襲、4月から6月にかけての沖縄の壮絶な地上戦と敗色は濃くなる一方だった。米軍の上陸に備え「本土決戦」「一億総特攻」が叫ばれたが、人々は食糧不足にあえぎ、空襲におびえていた。そして8月に2発の原爆が投下される。今からは想像もつかない、まさに「日本のいちばん長い夏」だった。  ◇国際感覚も情報も欠如  この題の映画(倉内均監督)が先日、NHK-BSハイビジョンで放送された。63年に元軍人、政治家、作家ら28人が終戦を振り返った座談会の再現だ。「文芸春秋」編集者だった半藤一利氏が企画し司会した。「日本はいかにして降伏できたか」という、いわば平和を創るぎりぎりのプロセスが語られていた。映画は各地の劇場でも公開されている。  座談会の冒頭、終戦時の内閣書記官長、迫水久常氏が「(7月26日の)ポツダム宣言は寝耳に水だった。もっぱらソ連を仲介とする和平工作に目を向けていた」と発言したのが印象的だった。  連合国側の動きを見抜けず、こともあろうに対日参戦を着々準備していたソ連に助けを求めていたのだ。ポツダム宣言受諾を巡って結論が出せないまま何日もすぎた。本土決戦を叫ぶ陸軍のクーデターの動きが政府関係者を脅かしていた。8月10日未明、昭和天皇の「聖断」で降伏が決まり15日の玉音放送に至る。  国際感覚の欠如と情報不足は耳を疑うほどだ。危機に際しての時間の空費がいかに大きな災いを招いたか。今への教訓も多い。  焼け野原となった日本は奇跡的な復興をとげた。東西冷戦下、平和憲法と日米安保体制により経済・通商に主力を注げたという偶然もあった。同時に国民皆保険、犯罪率の低さ、長い平均寿命など安心感の強い社会も実現した。  だが、最近は社会の劣化を示す事例が相次いで露見している。「消えた年金」問題や医療崩壊などへの国民の懸念が昨年の政権交代の大きな契機となった。今大騒ぎになっている高齢者の所在不明問題も、行政や地域の力が落ちていることを示す。  最近の日本は内向きになりすぎていると言われる。戦時中のように外の動きが見えなくなっては困る。  中国に追い上げられているとはいえ、世界2位の経済力の国が自国のことだけに気をとられているわけにはいかないはずだ。まして、かつて不幸な戦争を引き起こした日本である。積極的に平和を創る役割を担うのは当然のことだ。途上国の貧困の除去や教育支援なども含めた広い意味での平和創りで今後一層の寄与をしていくべきだろう。  日本はアジアを中心に積極的なODA(政府開発援助)を展開してきた。金額でもかなり長期にわたり世界1位の援助大国を誇っていた。だが、今や米、独、仏、英に抜かれて5位である。今年度予算も11年連続の減額でピーク時(1997年度)の約半分というのは寂しい。  PKO(国連平和維持活動)の派遣要員も今年初めの段階で中東のゴラン高原など3地域で計39人、世界85位というのは消極的すぎた。2月からのハイチ大地震の復興支援は久々の大型の派遣で国際的にも評価されている。今後も日本の得意分野を中心とした積極策を期待したい。  ◇核廃絶へ意義深い接点 (中略)  特筆すべきは核廃絶を巡る動きだ。原爆投下の当事国である米国の駐日大使が初めて広島・平和記念式典に参加した。英仏代表と国連事務総長も初参列だった。  広島・長崎の式典は被爆による犠牲者を鎮魂し核廃絶を誓う、平和を願う運動の象徴的な場だ。一方で国際政治をリードする米国など核大国は、核抑止戦略を前提に核不拡散や核軍縮を議論している。理想と現実の溝は大きかった。  だが、オバマ米大統領の「核兵器のない世界」演説(09年4月)から空気が変わった。北朝鮮やイラン、テロリストへの核拡散こそが脅威であり、冷戦型の核抑止の比重は低下したとの認識に立つ。核不拡散、核軍縮を通じて最終的に核廃絶をめざすという構想だ。それぞれ動機は異なるが、核大国と広島・長崎が初めて「核廃絶」という共通の目標を持ち、接点を持ち得た意味は大きい。  唯一の核使用国である米国のオバマ大統領も、唯一の被爆国である日本の菅首相も、ともに核廃絶に向けて行動する「道義的責任」を表明している。さまざまな日米連携が考えられ、日本政府も積極的に行動を提起すべきだ。オバマ大統領の早期の被爆地訪問を期待したい。  二度とあの戦争の悲劇を繰り返してはならない。そのために平和を創る努力をしていく。一人一人が考える終戦記念日にしよう。


日経は、外交戦略の重要性にスポットを当てている。
特に大戦前夜の有り様を重く捉えている。
毎日のところで指摘したような、大戦前夜におけるメディアの責任にも言及しているところが鋭いと思う。
その上で「国際情勢の甘い分析と、国力をかえりみずに大風呂敷を広げた外交、国内の情緒に依拠した対外政策」と括っている。
ここの部分は、社説だけではなかなか全てを語り尽くせないものだから、この字数でいうならばこう言わざるを得ないのだろう。
しかし本当の教訓を導くためには、更にディテールを分析して提示する必要があると思う。
そうしなければ、三国同盟にせよ対中戦線拡大にせよ、当時の時局が望まれなかった方へ転がっていった真の教訓が得られないのだと思う。
そして、今の世界情勢の中で日本はどうあるべきかという提言を導くための作業が大切だ。
敗戦の教訓をいまに生かしているか
http://www.nikkei.com/news/editorial/article/g=96958A96889DE3E0EAE1EBE7E4E2E3E7E2EAE0E2E3E28297EAE2E2E2;n=96948D819A938D96E38D8D8D8D8D
(前略)
なぜ無謀な戦争に走ったのかを徹底的に検証し、同じ失敗を繰り返さない努力を尽くすことが必要だ。

 日本が中国に加え米英とも戦争することになった原因のひとつが、いまから70年前にヒトラーのドイツ、ムッソリーニのイタリアと結んだ日独伊三国同盟だった。ドイツ、イタリアと組んで米国に対抗する狙いだったが、米国との対立は決定的になったうえ、その後のドイツの敗退でこの構想はあっさり崩れた。

 対中、対米政策の失敗も重なった。中国各地に戦線を広げ、それが米英の日本への警戒感を増幅させるという、負の連鎖を招いた。

 当時、多くのメディアや世論が米英中などへの強硬論に拍手を送っていたことも忘れてはならない。

 ここからくみ取るべき教訓は何か。国際情勢の甘い分析と、国力をかえりみずに大風呂敷を広げた外交、国内の情緒に依拠した対外政策は、国の進路を誤るという現実だ。

 いま世界では中国やインドといった新興国が重みを増す一方、超大国の米国は金融危機の後遺症やアフガニスタン戦争などで傷ついている。
 こうしたなか日本国内では、米国と距離を置き、外交のフリーハンドを広げるべきだという離米論も聞かれる。だが、朝鮮半島をはじめ日本の周辺にはなお多くの紛争の火種があり、米国との同盟なしで安定を保つのは難しい。影響力を増す中国とバランスを保つため、周辺諸国も強固な日米同盟を必要としている。

 情緒と願望に押し流され、現実を踏まえた冷徹な外交を忘れたとき、国の安定と繁栄は危うくなる。この歴史の教訓を改めて肝に銘じたい。

などと思いながら、日経のもう一つの社説を見てみると、ここに、前述の社説では語らなかったもう一つの教訓への提言がなされている。
そう、大戦前夜は資源争奪戦だった。
資源のない我が国が列国から資源と市場を閉め出されたことについては各紙は語らないが本当はこれが一番重要だったのではないだろうか?
中央アジア資源外交に弾みを
http://www.nikkei.com/news/editorial/article/g=96958A96889DE3E0EAE1EBE4E2E2E3E7E2EAE0E2E3E28297EAE2E2E2;n=96948D819A938D96E38D8D8D8D8D

朝日はまた一段と教訓を絞ってきた。
テーマは【「昭和システム」との決別】だが、文中で定義される「昭和システム」ではなくて、本当は「官僚制」からの決別が言いたいのではないかと思う。
それにしても、例によって外国人の著述を引き合いに出して、責任の有りかを「官僚制」一点に持ってくる。
今や「官僚」は最も叩きやすいスケープゴートだ。
そして「朝日自身には一切責任はない」という主張が行間からあふれ出てくる。
日経とは誠に対照的だ。
他方、「主権者」としての国民が「主導」するということは大切なことだ。
そのためには、各メディアは正しい情報を伝えなければならない。
メディアが自分たちに都合の良い情報だけ流して゛「主権者」を誘導するなどということがあってはならないと思う。
65回目の終戦記念日―「昭和システム」との決別
http://www.asahi.com/paper/editorial20100815.html
  脚本家の倉本聰氏作・演出の舞台「歸國(きこく)」が、この夏、各地で上演されている。8月15日未明の東京駅ホームに、65年前に南洋で戦死した兵士たちの霊が、軍用列車から降り立つ。
 「戦後65年、日本はあの敗戦から立ち直り、世界有数の豊かな国家として成功したんじゃなかったのか」「俺(おれ)たちは今のような空(むな)しい日本を作るためにあの戦いで死んだつもりはない」
■もうひとつの戦後
 劇中の「英霊」ならずとも、こんなはずでは、と感じている人は少なくないだろう。戦後、日本は戦争の反省に立って平和憲法を掲げ、奇跡と呼ばれた経済成長を成し遂げた。なのに、私たちの社会は、いいしれぬ閉塞(へいそく)感に苛(さいな)まれているように映る。
(中略)
米国の歴史家、ジョン・ダワー氏は近著「昭和 戦争と平和の日本」で、官僚制は「戦争によって強化され、その後の7年近くにおよぶ占領によってさらに強化された」と指摘する。同様に、日本型経営や護送船団方式など戦後の日本を支えた仕組みの多くは、戦時中にその根を持つ。

 「八月やあの日昭和を真つ二つ」(8月8日 朝日俳壇)。この句の通り、私たちは戦前と戦後を切り離して考えていた。だが、そんなイメージとは裏腹に、日本を駆動する仕組みは敗戦を過ぎても継続していた。ダワー氏はこれを「仕切り型資本主義」と呼ぶ。軍と官僚が仕切る総動員態勢によって戦争が遂行されたのと同じやり方で、戦後も、社会は国民以外のものによって仕切られてきた。
(中略)
冷戦下、西側の一員として安全保障と外交を米国に頼り、経済優先路線をひた走るという「昭和システム」は、確かに成功モデルだった。だが、時代が大きく変化した後も、私たちはそこから踏み出そうとはしなかった。

 「仕切り型資本主義」は「人任せ民主主義」とも言い換えられる。任せきりの帰結が、「失われた20年」といわれる経済的低迷であり、「顔の見えない日本」という国際社会の評判だ。
(中略)
政権交代は、小さな一歩に過ぎない。政治主導とはつまるところ、主権者である国民の主導ということだ。

 過去の成功体験を捨て、手探りで前に進むのは不安かもしれない。だが、新しい扉を開くことができるのは、今の時代に「生きてるわたし生きてるあなた」しかいない。


主権者たる我々が主権を行使する機会は選挙など限られてはいる。
しかしながら、その投票行動を正しい情報と判断に基づいてなすことが大切である。
マスコミが正しい情報を発信するとは限らない。
僕らにできるのは各紙を読み比べるとか雑誌からの情報とかだろうか。
雑誌だって自分たちの主義主張で書いているだろうから広く読み比べたい。
といいながらなかなか時間がない。
それでこのブログも更新できない…なんてね。
各紙の社説では「戦略の欠如」というが、「戦略」をプロセス立てて考えている人はどれくらいいるのだろうか?
下は僕が去年の今頃紹介したプロセスの一例だ。
フロー02.gif
外交・経済・福祉・軍事(防衛)その他どれをとっても重要な分野だ。
一人一人で全てを自ら考える必要はないにせよ、メディアが自らプロセスを立てた戦略を示してみたらいい。
それを見て一人一人がその妥当性をよく考える事が出来たらよいと思う。

仙台七夕まつり [仙台だより]

立秋が過ぎても暑い暑い…
夏になれば戦争をめぐる番組が熱くなる。
今日の「たかじん」も熱い熱い。
また…昨年に引きつづき8月6日に田母神氏が広島で講演をしたとか。
http://jp-pride.com/tamogami-20100806/
昨年は大阪から出て行けたけれど…仙台から広島は九州より遠く感じる。
ともあれ…それらのテーマはまた近々取り扱いたい。

さて、8月の仙台といえばやはり七夕である。
七夕の起こりは↓こちら
http://www.sendaitanabata.com/okori/index.html

土曜日夕方の仙台駅にやって来た。
そして中央通りと東一番丁通りを歩く。
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通りはお飾りの杜のようだ。
人は次々と並ぶお飾りをかき分けるようにして歩く。
これほど大きくなものが多数飾られていようとは思わなかった。
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見ると大概は通りに面するお店がそれぞれお飾りを出しているようだ。
呉服屋の前には呉服屋らしく
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蒲鉾屋の前は蒲鉾屋らしく
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そして、様々に意匠を凝らしている。
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銀賞を獲得しているのは藤崎百貨店の「100万人の笑顔」だった。
金賞は…見つけられなかった。
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定禅寺通りに出ると通りをステージとしてマーチングバンドが次々にやってくる。
それにしても…ここまで来るとものすごい人出だ。
仙台市消防音楽隊・グリーンジュエルズSENDAI
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陸上自衛隊東北方面音楽隊・フラッグ隊
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ごらんの通り人の頭ばかりだ…頭上にカメラを掲げて撮ってこのくらいだ。
例によって早めに帰宅した。

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