仲井真弘多知事が、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に向けた政府の埋め立て申請を承認した。「県外移設」公約の事実上の撤回だ。大多数の県民の意思に反する歴史的汚点というべき政治決断であり、断じて容認できない。(以下略)
政治家の命綱である「選挙公約」をかなぐり捨てた姿というほかない。だが、本人はそうは思っていない。埋め立ては承認したが、「県外移設」の公約は変えていない、という。県外移設を実現するために、政府から何の担保も取っていないのに、である。こんな説明で県民の理解が得られるとほんとに思っているのだろうか。(以下略)
沖縄県の仲井真弘多(ひろかず)知事は、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に向けた国の公有水面埋め立て申請を承認した。1996年の普天間返還合意から17年たって、移設問題は新たな段階を迎えた。だが県内移設となる辺野古の埋め立て承認は、知事の「県外移設」の選挙公約と矛盾するなど多くの問題をはらんでいる。(以下略)
米軍普天間飛行場を移設するため、名護市辺野古の海の埋め立てを認める。 沖縄県の仲井真(なかいま)弘多(ひろかず)知事が、そんな判断を下した。 宜野湾市の市街地の真ん中にある普天間飛行場は「世界一危険な基地」とも呼ばれる。その返還に、日米両政府が合意して17年。移設問題は新たな段階に入ったことになる。 普天間の危険は一刻も早く除かなければならない。だからといって在日米軍基地の74%を抱える沖縄県内に新たな基地をつくらなければならないのか。 移設計画への反発は強く、朝日新聞社などが県内で今月中旬に実施した世論調査では、64%が埋め立てを承認すべきではないと答えた。 知事は3年前に「県外移設」を掲げて再選された。なのになぜ埋め立てを認めるのか。知事は、県民の批判や失望を覚悟しなければならない。(以下略)
◆沖縄の負担軽減を加速させたい
1996年の日米合意以来、様々な曲折を経てきた米軍普天間飛行場の移設問題の解決に向けて重要な前進である。 沖縄県の仲井真弘多知事が、普天間飛行場の名護市辺野古への移設に伴う公有水面埋め立てを承認した。 普天間問題はこの17年間、日米間の最大の懸案で、膨大な時間と精力が注がれてきた。日米両政府、沖縄県、名護市、米軍など多くの関係者が複雑な事情を抱える、困難な連立方程式だからだ。 これまでの苦労を無駄にせず、難題を克服することは、日本の安全保障環境が悪化する中、同盟関係をより強靱(きょうじん)で持続可能なものにするという大きな意義を持つ。
◆知事の決断を評価する
仲井真知事にとっては、まさに苦渋の決断だったろう。 当初は、辺野古移設を条件付きで支持していたが、民主党の鳩山首相が「最低でも県外移設」と県民の期待を無責任に煽(あお)ったため、2期目の知事選公約に「県外移設」を掲げざるを得なくなった。 しかし、埋め立てを承認しなければ、普天間飛行場の危険な現状が長期間にわたって固定化されてしまうのは確実だ。(以下略)
長年の懸案だった米軍普天間飛行場の辺野古移設が、実現に向けて大きく前進した。
沖縄県の仲井真弘多知事が、政府による辺野古沿岸部の埋め立て申請を承認すると発表した。時間はかかったが、根強い反対論の中で、知事が国益と県民の利益の双方を考えたうえで下した重い決断を評価したい。 県との信頼を醸成し、基地負担軽減や最大規模の沖縄振興策で応えた政府の後押しも奏功した。 わが国を取り巻く安全保障環境は急速に悪化している。難しい課題は残るが、国民と領土を守るために必要な移設実現への取り組みを加速しなければならない。(以下略)
17年も立ち往生が続く問題に、解決の糸口がみえてきた。米軍普天間基地を沖縄県名護市辺野古に移設するのに必要な埋め立てを県知事が承認した。政府は早期に移設が進むようにさらなる努力を払わなければならない。 「基地負担を全国で分かち合う動きが出始めている」。沖縄県の仲井真弘多知事は承認発表の記者会見で、安倍内閣が打ち出した米軍訓練の半数を本土に移すなどの方針を高く評価した。 第2次大戦で全国で唯一、一般住民を巻き込む地上戦を経験し、戦後は長く米施政下に置かれた沖縄の県民には「日本に見捨てられた」との被害者感情がある。 基地反対運動は事故や騒音をなくしたいだけではなく、全ての日本人が同じ苦しみを味わっているのかという叫びでもあった。政府のみならず、全国民がこの思いを心し、各地で自ら訓練を受け入れるようにしなければ移設作業は再び暗礁に乗り上げよう。 年明けに移設先の名護市の市長選がある。宜野湾市の住宅密集地にある普天間基地が抱える事故の危険をどう取り除くのかなど原点に立ち返り、早期の移設の必要性を沖縄県民や名護市民に理解してもらう努力が欠かせない。(以下略)
今年も8月15日を迎えた。戦没者を追悼し平和への誓いを新たにする日である。
第2次世界大戦が終わってから65年。国連を中心に核軍縮や紛争調停の努力が続けられているが、戦争や地域紛争は絶えることがなく、平和への道筋はなかなか見えてこない。
終戦と言えば、8月15日を区切りに平和な日々が始まったというイメージが定着している。
しかし、8月9日に日ソ中立条約を破って満州(現中国東北部)に侵攻を始めたソ連軍は、15日以降も進撃を続けた。
(中略)
終戦の夏のもう一つの悲劇は、広島、長崎への原爆投下だ。(中略)
米国では、「原爆投下で本土上陸作戦が回避されたことにより、多数の米国人の生命が救われた」とする主張が根強い。
しかし、原爆という残虐な兵器の使用によって、20万人を超える広島、長崎の市民の生命が奪われた事実の重みは消えない。
一方で、日本も過去の誤りを率直に認め反省しなければ国際社会からの信頼は得られない。
日本は世界の情勢を見誤り、国際社会からの孤立を深めていく中で無謀な戦争を始めた。中国はじめ東アジアの人々にも多大の惨害をもたらした。
(中略)
1945年の終戦の夏を顧みることは、国際協調の道を歩むことを誓った戦後日本の原点を問い直してみることでもあろう。 「終戦の日」は、過去の歴史を踏まえつつ、国際協調の下、世界平和のため積極的に行動する決意を新たにする日にしたい。
・慰霊の日に国難の打開を思う
65回目となる終戦の日を迎えた。先の戦争の尊い犠牲者を追悼するとともに日本の国のあり方に改めて思いを致したい。
眼前には夥(おびただ)しいモラル破綻(はたん)と政治の劣化などに象徴される荒涼たる光景が広がる。こんな国のままでよいのか。どこに問題の本質があるのか。「壊れゆく国」を早急に正し、よりよき国として次の世代に引き継ぐ重い責務がある。
現在の日本の平和と繁栄の礎になっているのは、あの戦争で倒れた軍人・軍属と民間人合計約310万人だ。だが、死地に赴いた英霊たちの思いを今の日本人は汲(く)み取っているのだろうか。 どういう国を作ったか
7月に刊行された「国民の遺書」(産経新聞出版)は、靖国神社の社頭に掲示された遺稿を紹介している。昭和20年5月、九州南方にて23歳で戦死した長原正明海軍大尉は「どうか国民一致して頑張って頂(いただ)きたいものです。特攻隊員の死を無駄にさせたくないものです」と綴(つづ)った。
(中略)
「あの世に行ったとき、特攻隊員の先輩たちにこう聞かれると思っています。『おまえはどういう国をつくったのか』と。私はそのとき、きちんと答えることができるようにしたい」。生前、柔和な表情でこう語ってくれたのは、今年5月、82歳で鬼籍に入った阪急電鉄社長や宝塚歌劇団理事長などを歴任した小林公平さんだ。昭和18年12月に海軍兵学校に入り、終戦を最高学年で迎えた。
特攻隊を志願した先輩たちは小林さんらに日本を託したのだった。こうした踏ん張りが世界第二の経済大国に結実した。
だが、その中ですっぽり抜け落ちたのが、国家のありようだ。米国に寄りかかったことは、日本の復興を促したが、一方で独立自存(じそん)の精神を希薄にしてしまった。
忘れられたことはまだある。敗色濃い戦局をひた隠しにし、破滅的な結末を招来した戦争指導部の責任だ。自国による検証を行わず、責任をうやむやにした。失敗からの教訓を学んでいない。
今、日本の安全保障環境に警報ベルが鳴り響いている。台頭する中国に対し、米国のパワーの陰りが随所にみられるからだ。
しかも米軍普天間飛行場移設問題の迷走が示すように、日米同盟を空洞化させているのは日本自身なのだ。その結果、生じつつある日本周辺での力の空白を埋めるため、力の行使も辞さない勢力が覇を唱えようとしている。
・立ちゆかぬ「米国任せ」
これまでのような「米国任せ」による思考停止では、もはや日本は立ち行かない。欠落しているのは国を導く透徹した戦略観だ。 国家戦略のなさ、外交センスの貧弱さ、情報分析能力の欠如-その危うさは今と似ている。
揺れも大きい。戦前・戦中の軍事力偏重は戦後、完全否定となった。絶対的な無防備平和主義は、自己中心主義を育てたといえなくはない。
やはり自分たちの問題は自らで解決する基本に立ち戻ることが求められている。自力で守れないときは同盟国とのスクラムを強める。弱さは必ずつけ込まれる。
思いだしたいのは、昭和天皇が昭和20年8月14日の御前会議で述べられたことだ。迫水(さこみず)久常・元内閣書記官長の「終戦の真相」(平成15年9月号「正論」)がこう伝えている。「日本の再建は難しいことであり、時間も長くかかることであろうが、それには国民が皆一つの家の者の心持(こころもち)になって努力すれば必ず出来(でき)るであろう。自分も国民と共(とも)に努力する」
いまの国難を打開するには、国民が総力を挙げて、これに立ち向かい、乗り越えようとする覚悟と気概を持つ以外にない。
戦後65回目の終戦記念日である。あのころに思いをはせながら、平和を創(つく)るということを考えてみよう。 1945年はどんな夏を迎えていたのだろうか。 3月の東京大空襲、4月から6月にかけての沖縄の壮絶な地上戦と敗色は濃くなる一方だった。米軍の上陸に備え「本土決戦」「一億総特攻」が叫ばれたが、人々は食糧不足にあえぎ、空襲におびえていた。そして8月に2発の原爆が投下される。今からは想像もつかない、まさに「日本のいちばん長い夏」だった。 ◇国際感覚も情報も欠如 この題の映画(倉内均監督)が先日、NHK-BSハイビジョンで放送された。63年に元軍人、政治家、作家ら28人が終戦を振り返った座談会の再現だ。「文芸春秋」編集者だった半藤一利氏が企画し司会した。「日本はいかにして降伏できたか」という、いわば平和を創るぎりぎりのプロセスが語られていた。映画は各地の劇場でも公開されている。 座談会の冒頭、終戦時の内閣書記官長、迫水久常氏が「(7月26日の)ポツダム宣言は寝耳に水だった。もっぱらソ連を仲介とする和平工作に目を向けていた」と発言したのが印象的だった。 連合国側の動きを見抜けず、こともあろうに対日参戦を着々準備していたソ連に助けを求めていたのだ。ポツダム宣言受諾を巡って結論が出せないまま何日もすぎた。本土決戦を叫ぶ陸軍のクーデターの動きが政府関係者を脅かしていた。8月10日未明、昭和天皇の「聖断」で降伏が決まり15日の玉音放送に至る。 国際感覚の欠如と情報不足は耳を疑うほどだ。危機に際しての時間の空費がいかに大きな災いを招いたか。今への教訓も多い。 焼け野原となった日本は奇跡的な復興をとげた。東西冷戦下、平和憲法と日米安保体制により経済・通商に主力を注げたという偶然もあった。同時に国民皆保険、犯罪率の低さ、長い平均寿命など安心感の強い社会も実現した。 だが、最近は社会の劣化を示す事例が相次いで露見している。「消えた年金」問題や医療崩壊などへの国民の懸念が昨年の政権交代の大きな契機となった。今大騒ぎになっている高齢者の所在不明問題も、行政や地域の力が落ちていることを示す。 最近の日本は内向きになりすぎていると言われる。戦時中のように外の動きが見えなくなっては困る。 中国に追い上げられているとはいえ、世界2位の経済力の国が自国のことだけに気をとられているわけにはいかないはずだ。まして、かつて不幸な戦争を引き起こした日本である。積極的に平和を創る役割を担うのは当然のことだ。途上国の貧困の除去や教育支援なども含めた広い意味での平和創りで今後一層の寄与をしていくべきだろう。 日本はアジアを中心に積極的なODA(政府開発援助)を展開してきた。金額でもかなり長期にわたり世界1位の援助大国を誇っていた。だが、今や米、独、仏、英に抜かれて5位である。今年度予算も11年連続の減額でピーク時(1997年度)の約半分というのは寂しい。 PKO(国連平和維持活動)の派遣要員も今年初めの段階で中東のゴラン高原など3地域で計39人、世界85位というのは消極的すぎた。2月からのハイチ大地震の復興支援は久々の大型の派遣で国際的にも評価されている。今後も日本の得意分野を中心とした積極策を期待したい。 ◇核廃絶へ意義深い接点 (中略) 特筆すべきは核廃絶を巡る動きだ。原爆投下の当事国である米国の駐日大使が初めて広島・平和記念式典に参加した。英仏代表と国連事務総長も初参列だった。 広島・長崎の式典は被爆による犠牲者を鎮魂し核廃絶を誓う、平和を願う運動の象徴的な場だ。一方で国際政治をリードする米国など核大国は、核抑止戦略を前提に核不拡散や核軍縮を議論している。理想と現実の溝は大きかった。 だが、オバマ米大統領の「核兵器のない世界」演説(09年4月)から空気が変わった。北朝鮮やイラン、テロリストへの核拡散こそが脅威であり、冷戦型の核抑止の比重は低下したとの認識に立つ。核不拡散、核軍縮を通じて最終的に核廃絶をめざすという構想だ。それぞれ動機は異なるが、核大国と広島・長崎が初めて「核廃絶」という共通の目標を持ち、接点を持ち得た意味は大きい。 唯一の核使用国である米国のオバマ大統領も、唯一の被爆国である日本の菅首相も、ともに核廃絶に向けて行動する「道義的責任」を表明している。さまざまな日米連携が考えられ、日本政府も積極的に行動を提起すべきだ。オバマ大統領の早期の被爆地訪問を期待したい。 二度とあの戦争の悲劇を繰り返してはならない。そのために平和を創る努力をしていく。一人一人が考える終戦記念日にしよう。
(前略)
なぜ無謀な戦争に走ったのかを徹底的に検証し、同じ失敗を繰り返さない努力を尽くすことが必要だ。
日本が中国に加え米英とも戦争することになった原因のひとつが、いまから70年前にヒトラーのドイツ、ムッソリーニのイタリアと結んだ日独伊三国同盟だった。ドイツ、イタリアと組んで米国に対抗する狙いだったが、米国との対立は決定的になったうえ、その後のドイツの敗退でこの構想はあっさり崩れた。
対中、対米政策の失敗も重なった。中国各地に戦線を広げ、それが米英の日本への警戒感を増幅させるという、負の連鎖を招いた。
当時、多くのメディアや世論が米英中などへの強硬論に拍手を送っていたことも忘れてはならない。
ここからくみ取るべき教訓は何か。国際情勢の甘い分析と、国力をかえりみずに大風呂敷を広げた外交、国内の情緒に依拠した対外政策は、国の進路を誤るという現実だ。
いま世界では中国やインドといった新興国が重みを増す一方、超大国の米国は金融危機の後遺症やアフガニスタン戦争などで傷ついている。
こうしたなか日本国内では、米国と距離を置き、外交のフリーハンドを広げるべきだという離米論も聞かれる。だが、朝鮮半島をはじめ日本の周辺にはなお多くの紛争の火種があり、米国との同盟なしで安定を保つのは難しい。影響力を増す中国とバランスを保つため、周辺諸国も強固な日米同盟を必要としている。
情緒と願望に押し流され、現実を踏まえた冷徹な外交を忘れたとき、国の安定と繁栄は危うくなる。この歴史の教訓を改めて肝に銘じたい。
脚本家の倉本聰氏作・演出の舞台「歸國(きこく)」が、この夏、各地で上演されている。8月15日未明の東京駅ホームに、65年前に南洋で戦死した兵士たちの霊が、軍用列車から降り立つ。
「戦後65年、日本はあの敗戦から立ち直り、世界有数の豊かな国家として成功したんじゃなかったのか」「俺(おれ)たちは今のような空(むな)しい日本を作るためにあの戦いで死んだつもりはない」
■もうひとつの戦後
劇中の「英霊」ならずとも、こんなはずでは、と感じている人は少なくないだろう。戦後、日本は戦争の反省に立って平和憲法を掲げ、奇跡と呼ばれた経済成長を成し遂げた。なのに、私たちの社会は、いいしれぬ閉塞(へいそく)感に苛(さいな)まれているように映る。
(中略)
米国の歴史家、ジョン・ダワー氏は近著「昭和 戦争と平和の日本」で、官僚制は「戦争によって強化され、その後の7年近くにおよぶ占領によってさらに強化された」と指摘する。同様に、日本型経営や護送船団方式など戦後の日本を支えた仕組みの多くは、戦時中にその根を持つ。
「八月やあの日昭和を真つ二つ」(8月8日 朝日俳壇)。この句の通り、私たちは戦前と戦後を切り離して考えていた。だが、そんなイメージとは裏腹に、日本を駆動する仕組みは敗戦を過ぎても継続していた。ダワー氏はこれを「仕切り型資本主義」と呼ぶ。軍と官僚が仕切る総動員態勢によって戦争が遂行されたのと同じやり方で、戦後も、社会は国民以外のものによって仕切られてきた。
(中略)
冷戦下、西側の一員として安全保障と外交を米国に頼り、経済優先路線をひた走るという「昭和システム」は、確かに成功モデルだった。だが、時代が大きく変化した後も、私たちはそこから踏み出そうとはしなかった。
「仕切り型資本主義」は「人任せ民主主義」とも言い換えられる。任せきりの帰結が、「失われた20年」といわれる経済的低迷であり、「顔の見えない日本」という国際社会の評判だ。
(中略)
政権交代は、小さな一歩に過ぎない。政治主導とはつまるところ、主権者である国民の主導ということだ。
過去の成功体験を捨て、手探りで前に進むのは不安かもしれない。だが、新しい扉を開くことができるのは、今の時代に「生きてるわたし生きてるあなた」しかいない。