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琉球新報と沖縄タイムスは民主主義に寄与しているか? [核と平和と田母神氏]

ここへ来て、百田尚樹氏の発言が物議を醸している。

発端となった記事はこれだ。
------------引用開始------------
安保法案で報道批判続出 自民改憲派の勉強会

 安倍晋三首相に近い自民党の若手議員約40人が25日、憲法改正を推進する勉強会「文化芸術懇話会」の初会合を党本部で開いた。安全保障関連法案に対する国民の理解が広がらない現状を踏まえ、報道機関を批判する意見が噴出した。講師として招いた作家の百田尚樹氏に助言を求める場面も目立った。
 出席者によると、百田氏は集団的自衛権の行使容認に賛成の立場を表明した上で、政府の対応について「国民に対するアピールが下手だ。気持ちにいかに訴えるかが大事だ」と指摘した。
 出席議員からは、安保法案を批判する報道に関し「マスコミをこらしめるには広告料収入をなくせばいい。文化人が経団連に働き掛けてほしい」との声が上がった。
 沖縄県の地元紙が政府に批判的だとの意見が出たのに対し、百田氏は「沖縄の二つの新聞はつぶさないといけない。あってはいけないことだが、沖縄のどこかの島が中国に取られれば目を覚ますはずだ」と主張した。
 懇話会は木原稔青年局長が代表で、首相側近の加藤勝信官房副長官や萩生田光一・党総裁特別補佐も参加した。
 出席者の一連の発言について、自民党中堅は「自分たちの言動が国民からどのような目で見られるか理解していない。安保法案の審議にマイナスだ」と指摘。公明党幹部は「気に入らない報道を圧力でつぶそうとするのは情けない。言葉を尽くして理解を求めるのが基本だ」と苦言を呈した。
2015/06/26 00:03 【共同通信】
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与党議員と識者が、閉鎖空間でそういう話をしたということだ。 それをどうやって聞きつけたか知らないが、 だからどうした? というのが第1の僕の感想だ。

勿論人にはオフィシャルな立場での発言と
プライベートな立場での発言がある。
このうち、オフィシャルな立場でもオープンな場での発言と
クローズドの場での発言がある。
更に人には内心がある。
これらが完全に一致するわけがない。

今回の発言はオフィシャルな立場ながら、クローズドの場での発言だ。 それをあげつらうのはどうかとも思う。

次に中身を見てみよう。
「沖縄の二つの新聞はつぶさないといけない。」
ここだ。
ここでいわれているのは、琉球新報と沖縄タイムスであることは明らかだ。

言うまでもなく、報道機関は、我が国の民主主義が健全に機能するために必須の役割を果たす。すなわち、物事を正しく伝えることだ。
だから、一般論から言えば「新聞をつぶさないといけない」とは民主主義に対する重大な挑戦とも受け取れる。

しかし、琉球新報と沖縄タイムスは、県内の民主主義が健全に機能するための役割を果たしてきただろうか? 特に米軍をめぐる報道は、物事を正しく伝えてきたのだろうか?


いくつか事例を見てみよう。
東日本大震災が発生して一週間が経過しようとしている3月18日に、琉球新報は以下のような記事を載せた。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-174892-storytopic-11.html
------------引用開始------------
米軍の災害支援 それでも普天間はいらない2011年3月18日 9:31

 効果的な人道支援を行うのに、国境や官民、軍の立場の違いなど言っている場合ではない。しかし、ここぞとばかりに軍の貢献を宣伝するとは、どういう神経なのか。
 東日本大震災への米軍の災害支援に絡めて、在日米軍が普天間飛行場の「地理的優位性」や在沖海兵隊の存在意義などをアピールしている。強い違和感を覚える。
 在沖米総領事館は、沖縄から基地従業員を含む海兵隊所属の約480人や普天間、嘉手納両基地所属ヘリ、第31海兵遠征部隊の兵員2200人が災害支援で被災地へ向け派遣されたと発表した。
 未曽有の大震災に伴う死者や行方不明者の捜索、被災者救援は急務だ。原発事故に伴う放射能への被ばくリスクがある地域で救援に取り組む人々には敬意を払いたい。
 しかし、災害支援は売名行為ではない。人道上の見地から本来、見返りを期待しない、崇高な精神でなされるべきものだろう。
 在沖米海兵隊は「普天間基地の位置が、第3海兵遠征軍の災害活動に極めて重要であることが証明された」「普天間基地が本土に近いことは極めて重要」と普天間飛行場の地理的優位性を強調する。
 悲しみに打ちひしがれる死者・行方不明者の家族や被災者への配慮はないのか。そもそも近傍の基地ではなく、被災地から遠く離れた普天間基地がなぜ重要なのか。地震発生から3日経ての出動なのに「即応」でもあるまい。
 米軍の説明は、独り善がりで筋が通らない。政治的打算に基づく言動は、県民、国民の米外交に対する信頼回復にとって、かえってマイナスだろう。
 「沖縄はごまかしとゆすりの名人」などと差別発言をして更迭された米国務省のケビン・メア前日本部長を東日本大震災の日米間の調整担当に充てたのも不可解だ。
 メア氏は発言発覚後も学生が作成した発言録について「正確でも完全でもない」と非を認めず、今もって県民に謝罪をしていない。
 日本の「和」の文化を「ゆすり」と同一視する差別発言をしながらこれも撤回せず、災害支援で復権を目指すつもりか。発言の撤回も反省もない人種差別主義者の復権など願い下げだ。
 はっきりさせよう。米軍がどのようなレトリックを使おうとも、県民を危険にさらす普天間飛行場やその代替施設は沖縄にいらない。
------------引用終了------------
3月18日朝、これはどのような時点だろうか?
この日の14時過ぎに震災発生から丸一週間を迎えようとしている日の朝だ。
すなわち、被災地の現場では、生存する被災者を1人でも多く救助しようとする最後の戦いがくり広げられているときだ。
その時に琉球新報は、我が国の被災者に手をさしのべようとする米軍に唾を吐きかけるかのような記事を載せたのだ。
その視点は、「普天間はいらない」という、自分たちの都合を前面に打ち出している。 これが、健全な民主主義に寄与する報道機関のあり方だろうか?



もう一つの事例を示そう。
翁長知事は常々「沖縄は自ら基地を提供したことは一度もない。」と強弁している。
以下の記事でもそれは紹介されている。
翁長知事あいさつ(全文) 5・17県民大会2015年5月17日 21:19
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-243054-storytopic-271.html

勿論、琉球新報も沖縄タイムスもその強弁をそのまま伝えはするが、それが実は虚偽であることを伝えない。

佛教大学社会学部論集 第56号(2013年3月)に
『軍用地料の「分収金制度」(2)──入会地と戦後軍用地』という論文が載っている。
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SO/0056/SO00560L093.pdf
そこには、キャンプシュワブとキャンプハンセンは、地元住民が主体となって基地を誘致したという事実が述べられている。
------------引用開始------------
基地“誘致”の背景
基地誘致に関して言及のある3種類の文献がある。一つはテレビ取材班によるレポ(NHK取材班「基地はなぜ沖縄に集中しているか」NHK出版,2011年),二つは金武村自らが編集したもの(金武町企画開発課「金武村と基地」1991年),そして三つはやや異色の著者によるもの(恵隆之介「誰も書かなかった沖縄」PHP研究所,2000年,同「誰も語れなかった沖縄の真実」ワック株式会社,2011年.ここでは2000年本による)である。基地を誘致したという事実をそれぞれジャーナリスト,自治体当事者,元自衛官の著作家という立場で語るのであるが,どこにその視点を定めるかによって語り口は当然異なってくる。事実経過だけを記すと以下のようである。
久志村辺野古では1956年以降,村長が村議会全員の署名を集めて当時の民政長官(陸軍中将)に「村おこし」のために誘致を陳情するという「誘致運動」があった。しかし,軍用地料の支払いをめぐる「島ぐるみ闘争」が行われていたことがあって米民政府は即答を避けたが,再三にわたる陳情によって応諾,海兵隊が訓練場増設の必要からこの誘致に応じ,地主の80%以上が自ら進んで米軍と契約した。
1959年10月基地が完成すると村では祭りが催され,村長は「第二のコザ市をめざす」と発言し村民から喝采を浴びた。金武村でも同様で,地元住民が兵舎を含む恒久施設の誘致を積極的に行っていた。米軍基地を誘致すれば雇用が生まれ,基地から余剰の電力や水道の供給も受けられ,あるいは急病人の発生の際には米軍診療所で治療がうけられるといったメリットが語られたという。
この経過記述はかなり具体的であるが,NHK記者による取材と90歳に近い古老からの聞き書きとは大いに異なる。その古老は1955年当時30代半ばであるから,必ずしもこの経緯の当事者とも思えない想い出話となるが,海兵隊の移駐に辺野古住民はもともと反対であったという。この第二期の軍用地接収の候補地として米軍は辺野古を挙げていたのだという。NHK取材班によると辺野古への接収通告が宜野湾村伊佐浜の接収の直後にあったというのだ。
そこで住民代表たちが会合を重ねた結果,折衝委員を選出し条件を付して受入れ折衝に臨んだ方がよいということになったとある。海兵隊基地の建設工事は1957年3月に始まり辺野古は「新たな歩みを始める。」総工費200万ドルの事業規模によって「空前の活況」を呈するのである。建設労働には地元民の優先雇用とともに全島から職を求めて押し寄せる労働者,工事を当て込んだ商人が土地や貸家を求める問い合わせ,空き地が無いほどバーや料亭がひしめき,当時の人口500人,平地の少ない辺野古,農耕は限られ,入会地である山に入って木を切り出して現金収入を得るほど貧しい農村が「一大特飲街」と化して,山依存経済から基地依存経済へと移行,工事着工から5年で辺野古の人口は4倍に膨れ上がった。
こうして基地と共存することを選んだ辺野古は,基地居住民すなわち海兵隊員そのものを辺野古の一部つまり住民として処遇し,毎年恒例の催事にその構成員として参加を求めるという。そうした基地との交流には住民代表とキャンプ・シュワブの大隊司令官が加わる「親善委員会」が任に当たりスポーツ大会や年中行事,また輸血提供など「おしみない協力をして地域に溶け込んだ親睦活動」によって「相互の利益を守り尊重する委員会として今日に至り継承されている。」また軍用地の賃貸契約には水道の整備を求めるという条件を付けていたためそれは米民政府の援助によって行われ,街の水需要が増してくると米軍管理下の辺野古ダムから給水が行われるようにもなったという。
こうした基地誘致による地域の発展を見て,辺野古以外の住民による地区への視察が相次ぎ,「その活況ぶりを目の当たりに」して海兵隊の誘致に動き出した地域の一つのが金武村であった。
金武村関係者による1991年編集の冊子本には,活況を呈する辺野古に金武村と宜野座村から村会議員などの有志たちが視察に出かけたとある。金武村はすでに米軍が沖縄占領時から接収して実弾射撃訓練地であったが,海兵隊移駐に向けた兵舎などの施設が必要であったから金武村からの誘致は渡りに船であったかもしれない。
「金武には弾は落ちるが,ドルは落ちない」「演習は金武でやり,遊興は辺野古とコザ市」といった思いが最終的に基地の誘致という「苦渋にみちた選択」に至らせた。こうして金武と宜野座と跨ったキャンプ・ハンセンの基地建設が始まり,「島ぐるみ闘争」が終結へと向かったのであったが,この編集本の基地誘致に至る件りの経過説明の部分は当事者でありながらやや疎にして簡である。誘致に至る衆議がよほど複雑であったのかもしれない。因みに,これは入手することができなかったが,辺野古においても『ひぬく誌』という辺野古区編纂委員会による編集本が1998年に刊行されている。基地の所在する地方自治体が自ら誘致経過に関する本を編集する理由は何であろうか,沖縄社会における90年代の基地問題と何らかの関連があるのだろうか。
沖縄においては,軍とそれを受け容れる地域社会host communityとはもとより対等な関係にはない。米軍による接収に対して選択の余地はないが,こちらから差し出すという基地誘致の選択には,そうしても損ではないという計算が働いていたと思われる。
(つまりそれだけ貧しく,現金収入という魅力があったかもしれない)すなわち,基地をめぐる新興ビジネスへの期待ばかりではなく,辺野古,金武村,宜野座村においてはいずれも沖縄中部の各村のような個人所有の土地つまり私有地はほとんどなく,村有地などの共有地であるため基地を誘致するための合意形成が容易であったと見ることができるからである。
------------引用終了------------

繰り返しになるが、翁長知事が繰り返し強弁する「沖縄は自ら基地を提供したことは一度もない。」はまったくの嘘であることがわかる。
にもかかわらず、琉球新報も沖縄タイムスも、その嘘を追認しているわけだ。
それらを見ただけでも、琉球新報も沖縄タイムスも、健全な民主主義に寄与していないということがよく判る。

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フォレスト

多くの情報から議論が深まれそうなのに、報道で基地反対意見ばかり取り上げるのは少しフェアじゃない気がします。
政府の強硬姿勢も悪いし、沖縄知事の政府相手にも上から目線も問題でしょう。

もう尖閣諸島にでもメガフロート浮かべて移転しちゃえば良いんじゃないですかね笑
by フォレスト (2015-10-11 12:09) 

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